歴 史history
奈良時代_開山行基菩薩と芋堀長者
今から千三百年ほど前、遠州地方の民話で知られる芋堀長者が観音堂を建てたいと願っております時、(奈良の高僧)行基菩薩様が東国へ来られました。長者は菩薩に文武天皇の勅願所として観音堂を建てる事を願いでました。大宝二年六月十八日ついに帝の特許があり、一夜の内に用材が曳馬の里に信水に乗じて集まったと云われています。その後、工事は順調に進み七堂伽藍輪奐の美をなしたそうです。これが鴨江寺創建の因縁であります(今でも鴨江町一帯を長者平(ちょうじゃびら)と土地の人が呼んでいるそうですが、これは芋堀長者のことを指しているとということです)
平安時代_戒壇のこと
平安時代は、鴨江寺に三百余の寺々があり勅許を得ずに戒壇を作り殷盛でした。このため比叡の僧と戒壇のことで争い戦をしたと伝えられています。現在も戒壇塚とか鎧塚とか血塚とかいう処が残っています。一説には、「長暦年間、鴨江寺が朝廷に願い出たが、比叡の僧がこれを邪魔をした」と云われ、また、承保の頃には大江匡房の兄頼豪阿闍梨が鴨江寺に三味耶戒壇を作ることを朝廷に願い出たが比叡の僧の邪魔によりこれが成らず、頼豪は憤死、その跡を戒壇と云う」とも云われています。
南北朝時代_鴨江寺城のこと
足利尊氏の反逆によって後醍醐天皇は吉野へ行幸されました。天皇は元弘二年と三年、鴨江寺衆徒にご綸旨を下されています。鴨江寺が南朝方にお味方申し上げていましたので、尊氏方は斯波氏をして鴨江を攻め立てました。歴応二年七月二十七日、遂に鴨江の城は攻め落とされました。
安土桃山時代_善光寺如来遷座のこと
天正十一年、徳川家康は善光寺如来を鴨江寺にお迎えしました。爾後慶長二年四月二十七日に後陽成天皇の勅により山城国(京都)方広寺に移されるまでの十余年、善光寺如来は鴨江寺でお祭りされていたのです。「死ねば善光寺へ行く」と古くから言われていますが、善光寺とのこの因縁と、開山行基菩薩が現在お地蔵様の前にあります泉(阿伽井戸)で亡霊の為に水を手向けられ、亡き人々が皆成仏したという因縁とが合わさって、「死ねば鴨江に行く」という信仰がこの地方の人々の心奥に染み込んだと云われています。
江戸時代~現代
鴨江寺観音堂は、豊臣秀吉の世の慶長十三年火災で一端消失しましたが、そのときのお堂の規模は七間四方であったと記録に残っています。江戸時代に入って元和二年、徳川家康によって柱数十本を下し給うて観音堂が再建されました。その堂内に安置されていた宮殿が弁天堂の宮殿として現在も残っています。元和元年再建のお堂は百年余りで興廃しましたので、宝暦の頃からその再建に取りかかり、享保三年十一月二十八日に上棟しました。これが戦災前まで存在した十四間四面の大観音堂です。空襲で焼失したお堂は戦後すぐに再建され(昭和二十二年)、昭和六十二年の大改修を経て現在に至っています。この観音堂(本堂)と昭和三十四年建立された弘法大師拝殿、更に、昭和五十四年建立に建立された成田山不動堂と呼ばれる三つの大堂がそれぞれの因縁を持ちながら現在の鴨江寺を形作っています。