住職の法話

お彼岸

「暑さ寒さも彼岸会まで」といわれますが、そのお彼岸がやってきました。
お彼岸は春と秋の年二回あります。
春は「春分の日」秋は「秋分の日」である『中日』を真ん中にして、それぞれ七日間を『お彼岸』と呼んでいます。
春分の日も秋分の日も昼と夜の長さが同じで、しかも太陽は真東から昇り真西に沈みます。
こうした自然現象になぞらえて、この七日間を左にも右にも偏らない、仏教の教える大切な心である「中道」を実践する週間となったのです。
毎年春秋2回訪れるお彼岸は日本民族独特のもので、大変すばらしい意味があります。
ともすれば年中行事として形骸化しつつあるこのお彼岸の意味を今あらためて考えてみたいと思います。
人間の生命や肉体には必ず限りがあります。
また出会いは別離の始まりといわれ、形あるものは必ず壊れるとも言われます。
こうした「現実の世界」に生きる私たちはその一方で、「無病息災」「不老長寿」の思いを強く抱いて、変わらぬ健康や延命を願います。
また、平生は沢山の欲望に心をさいなまれあるいは執着に縛られることが多く、それが全ての悩みの根源となって苦しみや悲しみを増幅します。
でも時には、「人はどうあるべきか」「自分のよりよい生き方とは何か」などと、理想や願いを抱いて自分を見つめ生き方を問い直そうとします。
 
私たちの生活や心は、この現実とねがいの二つの世界の間を振り子のように行き来しています。
厳しく儘ならない現実、ともすれば不安と迷いに満ちた現実の日暮し、すなわちこれが今自分が立っているこの岸「此岸(しがん)」であり、一方こうありたいという願いに満ち、満足と感謝と平安に充ちた世界が、あちら側の岸すなわち「彼岸(ひがん)」なのです。

私たちは足元や目先のことだけにとらわれず、少し向きを変えてあちら岸を見ることがとても必要なことだと思うのです。
それをしましょう、心がけましょうというのが此「彼岸」のひとつの意味でありましょう。

じぶんの「いのち」はある日ある時ポッとこの世に湧いて出たのではなく、気の遠くなるような長い長い大いなる生命の流れの中ではぐくまれ、子々孫々に伝えられるべき「生かされているいのち」であることに気づき、このおもいをすべての「生きとし生けるもの」に向けていくことこそ、彼岸会の意味にかなうものと思います。